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大石弥太郎 (土佐藩) : ミニ英和和英辞書
大石弥太郎 (土佐藩)[おおいし やたろう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [こく, いし]
 【名詞】 1. volume measure (approx. 180l, 5 bushels, 10 cub. ft.) 
: [つち]
 【名詞】 1. earth 2. soil 
: [さ]
 【名詞】 1. help 
: [はん]
  1. (n,n-suf) fiefdom 2. domain (precursor to current prefectures) 

大石弥太郎 (土佐藩) : ウィキペディア日本語版
大石弥太郎 (土佐藩)[おおいし やたろう]
大石 弥太郎(おおいし やたろう、1829年11月30日文政12年10月17日) - 1916年大正5年)10月30日)は、日本の土佐藩士迅衝隊士。弥太郎は通称で、諱は初め元敬、のち圓(まどか)と改めた。位階従五位
土佐勤王党結成に尽力し、盟約書の起草を手掛けるなど同党幹部として活動、戊辰戦争においては板垣退助の率いる迅衝隊で小軍監などを務め各地を転戦した。明治維新後は新政府に出仕するが程なく辞し、以降は高知政界における「古勤王党派」の中心人物として影響力を有した。
同じく勤王党員で吉田東洋暗殺の実行犯の大石団蔵従兄弟にあたる。
== 来歴 ==

土佐国香美郡野市村横井(現・高知県香南市)に生まれる。郷士出身で、家は裕福であった。文武にすぐれ、国学を鹿持雅澄に、剣術を江戸鏡心明智流桃井春蔵士学館で学んだ。万延元年(1860年)末に藩命により大坂陣屋詰となり、翌文久元年(1861年)には洋学修業の命を受け再び江戸に遊学する。江戸では勝海舟の塾に通学し航海術や砲術を学ぶ一方、長州藩久坂玄瑞や、薩摩水戸など諸藩の志士と交わり、尊王攘夷の志を深めた。大石はこの頃土佐に帰国していた武市瑞山の東上を促し、武市に長州はじめ各藩の志士を紹介した。武市はこれに大きな刺激を受け、土佐勤王党の結成につながることとなる。
文久元年8月、武市とともに土佐藩の同志の団結を図るべく、江戸遊学中の同志とともに土佐勤王党を結成した。勤王党の盟約書は大石の手によるもので、武市に次ぐ2番目の署名者となった。武市が土佐に戻り党勢拡張に努める一方、藩命で洋学修業を命ぜられている大石は江戸に残り、前藩主山内容堂の赦免に向けた活動などを続けることとなった。修業を終えた文久2年(1862年)6月に帰国することとなったが、この間に勤王党は土佐における一大勢力となっており、吉田東洋の暗殺と東洋派の失脚など環境は激変していた。帰国の途上、京都において坂本龍馬と会い、藩主山内豊範の入京時の土佐藩兵の宿舎について相談している。次いで姫路において参勤途中の藩主一行に会い、随行していた武市とともに藩幹部らに対して国事周旋の献策を行ったあと、一行と別れて郷里に帰った。
同年10月、藩より中国・九州諸藩の情報収集を命じられ、長州藩など各藩を訪問した。その後長崎に派遣され、この間に新式銃1000挺を独断で購入している。文久3年(1863年)の八月十八日の政変の勃発時には京都出張中であり、報告のため急遽帰国している。政変を機に尊王攘夷派が退潮し、土佐藩においても武市はじめ主要な勤王党員が軒並み投獄されるなか、常に藩命により行動していた大石は投獄を免れた。大石は同志とともに藩庁に対し武市の赦免を嘆願し、自身を代表者とする建白書を提出するが受け入れられることはなかった。一方、実力行使を主張して野根山に屯集した清岡道之助らは、藩兵によって捕縛され斬首、武市も慶応元年(1865年)閏5月に切腹を命ぜられた。
慶応年間に入り、時勢の切迫とともに土佐藩においても軍備改革と人材登用が図られるようになり、勤王党の指導者であった大石も藩の要職に就くこととなった。慶応3年(1867年)2月、藩の軍備役に任じられ、上士の小姓組に編入されるという破格の抜擢を受けた〔同時期には、同じく勤王党出身の坂本龍馬が海援隊長に(慶応3年4月)、中岡慎太郎陸援隊長に任じられている(同7月)。〕。大石は板垣退助を助け、従来の階級的意識を除いた兵制の改革に尽力する。8月に英国公使パークスイカルス号事件の談判のため須崎沖に到着した際には、板垣らとともに現場で警備に当たった。
慶應4年(1868年)1月に戊辰戦争が始まると、四国各藩の偵察を行ったほか、高松で小目付役に、丸亀において大砲頭に任じられた。同月下旬には上京して板垣退助総督の率いる迅衝隊に加わり、東山道を進軍した。同軍が大垣で開いた会議には土佐藩小軍監として出席し、甲府侵攻を主張して容れられている。3月に江戸に入城、その後も北関東、東北を転戦した。10月に江戸に凱旋し、翌11月1日には明治天皇に拝謁している。土佐帰国後の12月には土工奉行に任じられ、翌明治2年1869年)には戦功により新馬廻組に昇進した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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